「千と千尋の神隠し」、日本で歴代興行収入1位を誇るジブリの大ヒット作が、中国でも大ヒットを記録しているようです。夏休みということもあってか、金曜ロードショーで放映されていました。
(※鬼滅の刃が歴代興行収入を塗り替えましたが、それまでは19年間不動のトップでした)
しかし「千と千尋の神隠し」で描かれる主題、物語はやや複雑で「感動した」「大好きな作品」という声の裏では「何がいいのかわからない」「もののけ姫のほうが好き」という声も聞こえてくる作品でもあります。
今回は、賛否両論ある本作品が大好きな私が「千と千尋の神隠し」の「主題」や物語の中ででてくる「千尋の名前を奪う描写」「カオナシの存在」「ハクの存在」などについて考察をします。
あくまでも解釈の1つなので宮崎駿監督の真意とは異なるかもしれませんが、監督自身「物語を詳細に描くのではなく、ある程度は観客に委ねる」監督なので、一つの見方としてこの考察を加えることに対しては許容してくれることを祈ります。
千と千尋の神隠しの主題は「社会で成長する少女の物語」
結論から書くと、この作品の主題は「千尋(一人の子ども)が成長する物語」というシンプルなものだと思います。しかし、この「成長」には特殊な点があります。それは「家族や学校での生活ではなく、社会との接触によって生まれた成長」であるということです。
「千と千尋の神隠し」のあらすじ1/4 ―現代社会から異空間へ―
物語のスタートは、引っ越しの車中で憂鬱に過ごす千尋の描写から始まります。
少年少女にとって人生の大半を占める学校という社会を去って悲しんでいる千尋。抵抗したい気もちとともに諦めているような表情も見せます。
身勝手な親なのでしょう。山道をアウディで強引に進み、山の中にある神聖な様子のトンネルを勝手に進み、そしてトンネルの奥にある街(社会)の屋台でも勝手にご飯を食べ始めてしまいます。その間、千尋は「いらない。帰ろう。お店の人に怒られるよ」と制止するわけですが、大人っていうのは勝手なもんで、子供を無視して食べ続けます。
千尋は街へ出て様子を見て回っていると、ハク登場。「ここへ来ては行けない。すぐ戻れ! 時期に夜になる。その前に…すぐ戻れ!」と千尋はいきなり怒られてしまいます。
慌てて両親の元へ走る千尋。あたりにひと気がでてきて不安が増す中、ようやく両親の元へたどり着くと両親は豚になっています。
逃げ延びた千尋でしたが、体が透明になりかけていたところにハクが再度登場し、少女を社会の中で暮らす手伝いをしていくわけです。
このシーンは、見知らぬ土地・社会との接点を表現していると思います。
現実でも、知らない土地、知らない国を訪れたとき、自分だけのルールで行動をしていたら罰せられるのと同じ。しかし大人は自分の経験がある分、他の文化を軽視する帰来があります。結果、罰せられることになるのですが…逆に社会をよく知らない千尋は慎重です。
「千と千尋の神隠し」のあらすじ2/4 ―湯屋で名前を失う―
一人ぼっちにされた千尋を助けたハクは、千尋をこの社会で生かすべく湯屋につれていきます。(このときにカオナシとすれ違います)
千尋は釜じいの部屋に案内された後、従業員に連れられて湯屋の上階に向かいます。湯婆婆と出会い、名前を取られ「千」と名付けられる千尋はいわば「組織の中の一人」としての人格を与えられます。個性を捨てろ、組織に従えと。
大きな組織の構成員の一人として生きさせられ、個人の名前を捨て、最終的には本当の自分の名前さえ忘れさせてしまう。それは宮崎駿監督が高畑勲監督と共に従事していた東映動画時代の労働組合の活動を思わせます。組織に所属しても、組織に利用されていいのか? というメッセージのようにも感じます。
湯屋という一つの社会、学校や家族とは異なる社会の中で過ごしていく「千」は、つらい仕事や人間関係を乗り越えて、自分なりに挑戦を続けていきます。
慣れない社会、親と離れる日々。元の世界に戻れるかどうかもわからない不安を感じているだろうに、千は湯屋に来る汚れ神をもてなしてお礼をもらうなど、成果・やりがいも感じています。
ハクに言われた自分の名前を忘れるなという言葉を胸に秘めつつ、その日その日を乗り越えていくのみの日々が続きます。
「千と千尋の神隠し」のあらすじ3/4 ―承認欲求に溺れる人間としてのカオナシ―
そんな中、カオナシとの物語も徐々に動き出します。
鈴木敏夫プロデューサーによれば、このカオナシは千と並ぶ主人公のような存在になってしまったと言います。(私は少女の成長の物語だと思っていますが、たしかに存在は大きいですよね)
カオナシは当初、千尋とハクが湯屋に入るシーンですれ違う描写からはじまります。
その後千が湯屋で働き始めるころに、外で一人たたずむ描写からカオナシの物語が始まります。おそらく孤独を感じ、人に認められる日々を送っていないのでしょう。誰からも認められることのない人生。
人から認められない人生を送る中で、自分の存在意義、自己肯定感を失ってしまったカオナシは、自分の意志や考えに自信を持つことができなくなり、人に認められるためだけに行動する「顔無し(自我なし)」になってしまったのだと思います。(カオナシは千が湯屋の薬湯をもらって喜ぶところや、みんなが砂金をもらって喜ぶ姿をじっくり観察していますが、これは承認を求めた行動を真似るためだと考えられます)
そんなカオナシに、千は見返りもなく承認を与えている描写もありますね。
その後、砂金を出すことで人に認めてもらえると知ったカオナシは、湯屋で従業員に砂金を振り撒きます。それまでカオナシに見向きもしなかった従業員たちは大変もてなすようになる。
味をしめたカオナシは千にも砂金を渡そうとしますが、千は見向きもしません。「なんで? 僕を認めてくれないの?」と言わんばかりに悲しむカオナシ。笑われたこと≒自尊心を傷つけられたことに傷ついたカオナシはそこから大暴れ。最終的に湯婆婆の姉、銭婆に抑え付けられるのですが、ネズミに変身させられたカオナシは銭婆と共に暮らすこと自体に価値を感じ始め、アイデンティティを確立し、救われることになります。(ネズミになった=他者との関係を作り、自己を持つことで「顔無し」ではなくなった)
ちなみに、その後はカオナシが嫌な奴として描かれることはありません。宮崎駿監督は「カオナシ」 – 自分に自信が持てず承認欲求を求めて生きる人 – を否定するのではなく、最終的には大切な人と暮らすことや責任を持って生きることで救われるということを描きたかったのだと思っています。
カオナシに毅然とした態度を示した千に話を戻します。千は弱気で逃げ腰だけど、自分の大切な軸はブラさない強い少女です。最初はおどおどしていた少女も、湯屋という社会生活でたくましくなったのか、毅然と振る舞う姿が印象的です。
ここでは、お金や承認で自分の意志を歪めることは簡単だけど、それ以上に大切なものがあるということを伝えようとする宮崎駿監督の意志を感じます。
「千と千尋の神隠し」のあらすじ4/4 ―名前を取り戻す千とハク―
そしてハクと千の物語。カオナシの話と前後しますが、千が湯屋の寝床で過ごしているとき、傷だらけの龍が紙の鳥に襲われているところに遭遇します。傷だらけの龍に対して千は、初めて見たにも関わらず「ハク」と名を呼びます。
ハクを助けるため、湯婆婆の部屋に向かう千。銭婆に追われた瀕死のハクに「名のある河の神」を救った際にもらった団子を食べさせます。
この龍こそ「契約」に縛られたハクの真の姿。契約書を表現するから紙の鳥なんでしょうか。人としての信念は強いが、自分が生きるために湯婆婆と契約をしたハクは、自分の名前を忘れてしまっています。
しかし自分が救った千と過ごすうちに「ニギハヤミ コハクヌシ」という本来の名前を思い出します。なにかどうしようもない理由があったから、という理由で自分の意志に反する仕事や人生を送ってきた人も、一人の人間との出会いで心を溶かされ、自分の人生を生きるという描写に見えます。(結婚や運命の出会いのイメージと重なりますね)
様々な事件を経て、ついに千が湯婆婆に認められ「自分の親はどの豚か」と言われるも一発で当てて「千尋」という名前をなんなく取り戻して湯屋の社会を卒業(退職?)することになります。ここも当初の千尋であれば、何もわからない、自分の判断軸がない、責任も持てないという一人の少女のようだったのに、大人である両親を救う側に立っています。成長ですね。
トンネルと抜けると何事もなかったかのように戻る生活。しかし、千尋の中には確かな成長が残っていたのでした。
家族、学校以外の社会が人を成長させる
「自分の子どもにも千尋のように成長してもらいたい」と思っても、現実に置き換えるのは難しいと思います。小学生に労働機会はないですからね。
ただ、例えば学校や家族を超えたコミュニティ、海外旅行やボランティア、部活動なんかもそうでしょうか。自分の責任だけで過ごさなければいけない社会というのは、幼少からも存在します。もちろん、保護者的な大人はいるでしょうが、親や先生に庇護されている社会から離れることは人を大きく成長させるのかもしれないと思ってしまいました。
ただ、宮崎駿監督はその成長機会を「湯屋(会社)での労働」で表現しています。個人的には、これが労働以外のものではいけなかったんだろうと思います。生きるために働くこと、親の庇護を離れて自活すること。それが、少女を強く成長させるために必要な描写だったのかなあと。
長くなりましたが、これが私の「千と千尋の神隠し」考察です。宮崎駿監督の偉大さは、2時間位の映画でこんなにも複雑な考察ができる余地のある作品を大量に作っているところですよね。そして、本当にそのメッセージを持っているの? と聞いても「そんなことはない」と一蹴されそうなところも魅力的だと思いました。
細田守監督の「未来のミライ」と少し世界線の描き方が似ていると思いましたが、これは両監督に共通している「子どもって大人の知らない内に、いつの間にか強くたくましくなっているもんだ。どういうことかなあ」という思いの現れだと思います。
もちろん、こじつけというか、主観も入っていますが、作品をより楽しむための一助になれば嬉しいです。
・鈴木敏夫プロデューサー監修、文春編集の解説本もどうぞ。おすすめです。